2025/07/10

それを言ったそいつは多分もう死んでると思うけど。

 女性の方からがほとんどなのですが、しばしば“手”に言及されます。ありがたいことに「手が綺麗」だとか言われることが。昔していたスポーツもボールを蹴ったりするものでしたし、あまり手を使ってこなかったからかもしれません。特にケアも何もしてないですし、洗い物とかのせいでよく指先荒れているので(そんなこと言ってもらえてありがてぇな…)と思います。

一方で悪意を持ったご老人に「えらい綺麗な手ェして、ペンしか握って来んかったんやろうなぁ」と言われたこともあります。多分そいつはもう死んでいるのでどないでも良いんですが、長く僕の心に残っているのは悪意のあるそれです。不愉快からではなく(実際そうやしな…)と思うから。


ぼくは自分のしている「仕事」に対する後ろめたさがあります。

前の仕事もスーツ着て事務、というような感じでしたし、今の仕事も奢侈品と必需品の間のものを売るような仕事です。技術を伴う仕事ではありますが、冷房の効いた部屋の中でやる仕事には変わりありません。しかも割と好きな仕事で、“仕事”そのものへのストレスはあまりないかもしれない。


一方、世の中は膨大な種類の仕事に溢れています。

我々が口に運ぶ食物を作る人、我々が住む家を建てる人、誰かの命や治安を守る人、小さなお子様を育てる人やご年配の方の介護をする人。

職に貴賎なしとは申しますが、外的に過酷な環境やストレスフルな職場で明確に誰かのために働く人を見ていると、俺は快適な環境でいったい何をやっているのかという後ろめたさと、そちら側へ転身する勇気のない己の情けなさに打ちのめされます。

社会はこの数百年でより複雑化し、分業が発生しました。それぞれの人格を持った多数が協力して社会を成立させる、有機的な連帯を伴う社会になって久しいです。一方で、その社会の網目の中に置かれた自分の位置の正しさに疑問と、労働を通して社会に対して

どう在るべきなのかという観点からの後ろめたさがこの数年ずっと己の中にあります。


とはいえ、今私が身を置く業界もロクでもなく、このまま誰も変革しなければ良くない方向へ向かうのが自明なのも事実であります。

正しい知識と技術、ある種の思想や使命感を持つ適切な人間が必要で、己がその役割を担わねばならないというある種の言い訳と、置かれた環境でちゃんとやる大切さも理解しています。


答えのないこの問いに、いつ答えが見つかるのか。


今はおそらくこの世にいない、私に向かっていちびった口叩いた老婆の年齢になった時、明確に回答ができるかどうかはわかりません。

本来は考える必要もありませんし、僕が“労働”というものを理想的に考えすぎているだけなのも理解はしています。

ただ、私は今日やることをちゃんとやろうと、毎日働くんだろうなと思います。