2026/06/13

ままならない

そういえば一昨日は久しぶりにひとりで行動したのだが、昼をサンドイッチひとつにしたらさすがにちょっと量が足りなくて3時頃にはもう腹が減っていた。そして、そういえば一人暮らししているときって起きてる時間の半分くらいは空腹感を抱えながら生活していたなあと思い出した。しかし元の体重が健康体重以上あったので、とくに問題はなかったのである。

で、今デブった原因の薬剤を中止したにもかかわらず全然体重が減らないのってもしかして親に食わされすぎてるのでは?!と気がつき、ちょっとメシ減らしてくれや、と注文した。

いや、ありがたいんですけどね。本当に。愛は感じる。でも今欲しいのはそれじゃないんだよな、ということを伝えられる良い家庭です。

私は共産主義とも社民主義とも決心がついていないふんわりリベラル左翼なのだが、とりあえず現代資本主義への反感と保守派への嫌悪感はとてもある。なので、資本主義のカスエピソードと保守のカスエピソードが出てくるたびにキッショ!と口にするのだが、親は少なくとも右でも保守でもないので、許されている。ありがたい話です。

 私がノンバイナリーであることも理解しようと努めてくれていて、とくに母はプロナウンス(ジェンダーが入る代名詞)にも気を使ってくれる。

それでも孤独を感じるのだから、人生ってのはままならない。 なんなんでしょうね。私が安心して眠れる住処はどこにあるのだろう。 そのような住処はもう失われてしまっていて、この世のどこにもないのではないか。そんなことを思うである。

どうしても凍えて死にそうになったら、あなたの家に一晩だけ泊めてくれないだろうか? 

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2026/05/28

もう百年前の話だけれど

例えば知り合ったばかりの人に保険証を持っていないと云われたら。施設を出ていかないといけないとか生活保護を打ち切られたとか医療費も含めて月二十万円は要るとか云われたら。助けたいと思って話を聞いている内に十万円も振り込んでしまった。無職で障害者なのにだ。多分だけれど彼女からしたら友人でもない人に大金を振り込んでしまうことも腹立たしかっただろう。でもずっと考えている。何が最善だったか。

 

ツイッターで貴方を好きでいたいから返していただけたら嬉しいですとリプライを送ったら貴方のパートナーに酷いことをされているとかツイートを消してほしいとか云われた末に訴えるとか誹謗中傷だとか貴方は彼女に永遠の傷を付けたとか絵文字箱にメッセージが幾つも届いた。流石に怖くなって落ち込んだ。同じく絵文字箱から臓器を売るとか死ぬとか云われた時に返さなくて良いですよとラインしてしまったけれど心臓を売ってでも返してくださいねと云えない私は酷いのでないか。例えば私を養い続けている父に対して。

 

在宅で就労継続支援を利用している。稼ぐということは本当に難しいと思う。私を好きな人はどうか金銭でなく言葉を求めてほしい。死ぬという言葉で私の美学や倫理観を歪ませないで。もし私の知らない人の財布を盗んでもきっと嫌いにならないから。良い子で生きたいなんて贅沢だと分かっているから。好きでいさせてね。

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2026/05/26

ずるいよね

こんにちは、ハザマです。
毎日暑くて許せないよね。5月にこんなことを言って、どうすればいいんでしょうか。どうにもなりませんよ。お願いですから夏の間はみんな休みってことにしてくれませんか。

人のことを羨むときに、ずるいって言う人いるじゃないですか。あれ嫌じゃないですか?
言われた側は嫌な気持ちになるし、それで関係性がプラスになることが全くない最悪の使い方だと思うんですよね。
何もずるいという言葉が悪いわけではありません。
ずるをしたらずるいわけです。いや、ずるて。変な言葉。まあこの使い方は、イカサマとか、人を騙して得をする場合の使い方ですね。

誰かを羨ましがってずるいと言うのが嫌のは、もちろん使ってる人はそんなつもりはないのでしょうが、やはりもともとの意味である非難するような印象が私にあるからでしょう。
例えば恵まれた環境だったり素晴らしいご家族をお持ちの方を羨む気持ちはわからないではありません。それをずるというのはやはり納得はいきませんが、これに関しては許しましょう。←誰?
ただ、環境や人間関係でも、努力して得た場合がありますよね。そしてそれに対してずるいという方もいますよね。こちらに関してはわたくし、全くもって許せないことでございます。
あなたがうじうじとおれなんかダメなんだと校庭の砂を指でざらざらして遊んでいる間、その方は自分が生きやすくするための努力をして、その環境や関係を得たわけです。
これがまたね、努力してないように見えるんですよね。なんかいい人だから、いい感じのところに勝手に受け入れられて、いい感じの人が勝手に集まってくるように見えるんですよ。でもそういう感じになるまでにその人はいろんな場を切り抜けてくぐり抜けて耐え忍んでここまで来たということを、5分とかでいいから考えてみてほしい。
家族以外の人間関係ってほとんど自分によって築かれたものですよ。努力して家族を切り離したり、勝手に築かれてしまう他人との関係という例外もありますが。

実は話がちょっと逸れてたんですけど、私が好きなずるいもあるんですね。
これは相手に敵わないとわかってぼそりとつぶやく「ずるい」です。あ〜〜〜〜〜!!!めちゃくちゃ味する〜〜〜!!!いろんな味がしてしばらく噛みしめていられます〜〜〜!!!!!
キモオタでした。さようなら。

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2026/05/15

雪の中を彷徨いながら

私の個人サイトであるコーポ雪原の最初のページには、こんなことが書いてある。

    コーポ雪原へようこそ。ここは、私の管理するアパートであり、私の脳内である。
    雪の中を彷徨うように、日々のあれこれと、そこからの連想を書き綴る。
    ここは誰のことも拒まない。ただ静かに、あなたが訪れるのを待っている。
    ここは去ることも拒まない。またいつか、会えることを願って。

この部分は、昔、サマさんから、私の文章は雪の中を彷徨っているようだ、といったことを言ってもらったのが元になっている。

今も彷徨っているし、そしてこれからも彷徨い続けるのだろう、となんとなく思う。ただ、現在は日記と思想は分けて記事にしているので、どうも合わなくなってきたな、と思った。そこで、こんなふうに変えてみた。

雪の中を彷徨いながら、それでも私は私の道を探して歩きつづける。

こちらのほうが、いまの私を表すのに適している気がする。 

 

雪景色というのは、私にとって特別な意味を持つと同時に、日常の風景でもある。

都会の人工物の多さに慣れてしまうと、田舎はなにもないように見える。しかし、のっぺりとしたコンクリートで敷き詰められた土地は、むしろ単調であるように思える。どこを歩いても似ている。しかし、行き交う者たちの装いの多彩さ、主張の激しいポスターや店の外観、喧騒、走行音、それらはとても私を疲弊させる雑多さだ。

田舎はそういった過剰さがない。ちょうどいいのだ。そして最も世界が単調で静かになるとき、それは雪が降り積もったあとである。 

草木も動物も眠り、世界は白に染まる。私はこの静けさが大好きだ。生き物は誰しも必ず孤独であることを思い出させてくれる。それが当たり前だと言っている。だから安心する。 

海も好きだが、海は海岸沿いでなければ見ることができない。雪ならば、冬になれば必ず降る。

雪は脅威であり、恵みでもある。積もりすぎれば身動きが取れないし建物が潰れる。しかし、北海道のダムが枯れないのは雪解け水のおかげでもある。その両価性が好きだ。

 

ここで筆を置くことにする。これもまた、彷徨うことである。 

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2026/04/04

インディヴィジュアル宗教

この文章は、全ての死にたい者たちに捧げる。


一説に依ると、宗教の定義とは、人間生活の究極的な意義を明らかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわりをもつと、ひとびとによって信じられているいとなみを中心とした文化現象である。また、宗教には、そのいとなみとの関連において、神概念や神聖性を伴う場合が多い、とのこと。

つまり、以前ここで書いた「信仰」にまつわる文章は、部分的には宗教的と言えるだろう。しかし、人間の問題の究極的な解決、これについては語りそびれていた。ので、今回はその話をしようと思う。

死は救済である、とは、もはや手垢にまみれた言葉だが、しかし真実の断片でもあると思う。『絶望のきわみで』において、シオランは「精神の存在は、生のひとつの異常だ」と述べている。精神を抹消するには、死ぬしかない。

しかし、全ての死は、全て救済たり得るだろうか? つまり、自殺は自力救済となるのか、ということだ。

民事法には自力救済についての記載があり、何らかの権利を侵害された私人が、司法手続によらず実力をもって権利回復を果たすことをいう。

ここから自殺について語るのはいささか牽強付会にも思えるが、まあ私の思考などいつもそのようなものである。

つまり、自殺とは、自尊心や信頼、希望を傷つけられた者が、その原因となった対象ではなく、自分の命を用いて、自尊心・信頼・希望があったことを主張する行為と言える。お前らの行為は、言動は、人殺しだったんだぞ、と突きつけるのだ。

もしかすると、それは上手くいくかもしれない。

しかし、自力救済は法律では認められていない。私人が暴力によって制裁を加えてはならないからだ。制裁を加えるのは司法の仕事である。

つまり、自殺によって相手を非難するのではなく、社会的に相手に非があったことを認めさせるのが正しいやり方なのだ。

では、現代では自分の命の行方さえ、自分では決められないのか。その通りである。これをフーコーの理論では生権力と言う。自殺は、社会的に認められるものではないのだ。

でもさあ、そんな理屈なんか知らないよ、もう苦しくてつらくてどうしようもない、一刻も早くこの精神を手放してしまいたい、そう思うこともあるだろう。むしろ、そのほうが多いかもしれない。

では、冒頭の問いを少し変えてもう一度見てみよう。すなわち、自殺は救済か。

きゅうさい【救済】 精神的不幸や物質的貧困および災害から、ひとびとを救うこと。(新明解国語辞典 第五版)

精神を抹消すれば、死ぬことができれば、それは救済かもしれない。

だが、少し待って欲しい。死ねば、マイナスはゼロに還元される。それは尤もだ。だが、今際の際に、後悔する可能性はないか? やっぱり死にたくなかったと絶望しながら死ぬ可能性は?

そんな正論もう聞き飽きたって? そうだよな。じゃあ、私の持論を聞いてくれ。

繰り返しになってしまうが、やはりひとは今際の際に、やっぱもうちょっとだけ、あと一時間だけでも生きて、おいしいものでも食べて、きれいな景色を見てから死にたかったと思うような気がするのだ。つまり、死の瞬間にマイナスに振れてしまう。死んだ後は、ゼロにはならない。ただ永遠のマイナスが残されるのだ。この私が生きていたという事実は消せないのだから。

ならば、本当の「救済の死」は無いのか。私は、あると思う。

生きて、苦しんで、苦しんで、苦しみ続けた先に、不意に訪れる不条理な死。これこそが本物の救済だ。

不条理とは神のしるしである。神は人間のように、言語で、物語で世界を理解してはいない。あるいは、物語を理解したうえで裏切る存在だ。我々とは違う世界に住まう理不尽の権化、それが神である。

突然の事故、事件、災害、病。この私が手を尽くしても回避不能の死、それが神が齎した救済の死なのだ。

では、救済されるに値する苦しみとは何か。不条理の苦しみである。

私は物体と権力者以外に怒りを覚えることは無いと言っていい。あるひとはこれに対して、大人びているとか、理性的だと褒め称える。しかし私自身には、これは人間味の欠如としか映らない。プルチックの感情の輪でも、怒りは基本の感情のひとつとして定義されている。その基本が、私には基本と思えない。

おそらく、私は人間というものに期待していないのだろう。期待がなければ裏切りもなく、裏切りがなければ怒りもない。だから、他者に期待を持っている者のことは、素直にすごいことだと思う。私にはそれができないから。

この、およそ一般には理解されがたいと思われる苦しみ、これこそが不条理の苦しみである。自力でこの苦しみを無くすこと、つまり他者に期待を持てるようになることも、もしかしたらできるかもしれない。それでも、今この瞬間から、というのは絶対に無理だと思う。

あなたがまだ未成年で親元から離れられないが、しかし苦しみの原因が親にある場合、これもまた不条理の苦しみである。出生とは、生きている人間にとって最上の不条理である。産んでくれと頼んだ覚えはないし、あんたなんか産まなきゃよかったと宣う親など矛盾この上ない。生殖行為をするのならば、子を産み、育て、ひとりの存在者として生きていけるよう倫理的に接するのが親としての義務である。その覚悟もなく親になろうなど、言語道断だ。

不条理の苦しみ以外の苦しみ、つまり今この瞬間に無くすことができる苦しみ、これは回避・解消するに越したことはない。むしろそれが賢明であり、神の期待に沿う行為である。

例えば、学校の環境が悪い、居心地が悪くて苦しい、これは逃げ出すべきである。テスト的な勉強ならば、自力でも可能である。幸いインターネット上には、さまざまな解説コンテンツが山のようにある。人間関係? そんなもの、あとからいくらでも学べるから大丈夫だ。人生は長い。

人間関係や仕事内容が苦痛で、もうこの仕事を続けられそうにない、いっそ死んでしまいたい。これはすぐさま辞めるべきである。失業手当を貰い、なんとか生き延びたほうが善い。転職できればそれでいいし、どうにもならなければ生活保護を受ければよい。生活保護の水際対策は、日本共産党の者に相談すればなんとかなる率が高いらしい。

神は不条理と変化を好む。常に同じ場所で安住することは許されない。

だから、私は苦しみながら生きるのだ。いつか訪れる救済を待ちながら。

どうかあなたも、私の手を握ると思って、一緒に苦しみながら生きてくれないだろうか。

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2026/04/01

期待が重い

こんにちは、ハザマです。

一応何年か日記を書いてたのでこちらは日記とは分けて書いてる(つもり)んですが、今年に入ってついに日記をサボりだしたのでもうあんまり分ける意味がなくなってきました。
というわけでこないだあった面白いこと聞いてよー!私が勝手に面白がってるだけで話として面白いかはもちろんみなさん次第だよねー!

長きシフト生活をついに終え(別に終えたくて終えたわけではない。転職しただけ)、カレンダー通りの生活になった私は今まで用事ができたらすぐに行けてた役所やら銀行やら郵便局の用事がわざわざ平日休みを取らないと行けなくなったことに辟易していた。ていうか働いてるみなさんほとんどこうなわけでしょ!?おかしくない!?!?まあそれはさておきね……
それだけのために休みを取るのは嫌すぎて延ばしまくっており、友人と遊ぶために取った平日休みのタイミングで、こりゃあチャンスじゃぞいと用事を済ませ、ジジイ化が止まらない私は用事を済ませるのもほぼ朝イチだったので、よーしジジイ喫茶店で一服しながら読書して友人待っちゃうぞᴡと小さめのパンケーキを食べながら2時間弱のんびりしていたわけです。昼飯を食う約束をしているというのに。胃袋だけはわんぱく。

友人は45分着の電車で来ると聞いていたので、45分に改札前に行こうと思っていました。
45分着の電車ってことは改札に来るまでにはさらに数分あるわけで、その前にトイレに寄ることも多いことを知っているから、余裕がある時間設定なんです。
そんなわけで私は30分ごろに会計をして喫茶店を出て、トイレに寄り、40分くらいにまだ連絡が来ていないのを見て駅に歩き出しました(喫茶店が駅すぐのビル内なので5分もかからない計算)。
ビルから出る瞬間またスマホをチラッと見ると「着いたんだけどもしかして現地集合……?」みたいなLINEが。あれ!?45分になってもないんだけど!?!?

大都会TOKYOはどれだけ電車が走っても運ばれたい人間が次々湧いてくるので数分おきに電車が来る仕様上、乗り換えにうまくいくと気づかないうちに“予定より早く着く”ということも起きるわけです。それが起きたわけです。そしてあとから聞いたところ友人自身がそれに気づいていなかったとのこと。
それはまあ起こり得ることですが、なんかすごい「なんでいないわけ!?」と言われるんですよ。おかしいじゃん。さっきまでの説明で私がめちゃくちゃきっちりやってるとみなさんも思いますよね?
「いやだから、余裕あるはずだったんだって、で実際全然遅れたりしてないしね!?」と言ったんですが、「でもハザマは“いる”じゃん。いつもさ。絶対“いる”じゃん」と。妖の話してるじゃん。
今回に関しては私ほんとにミスってないし今話した内容もかなりしっかりしてるほうだと思うんだけど、それでもダメなんだ?と聞くと「うん」と言われた。俺「期待が重すぎる」

私がここまでイジられても全く平気な人間ということは大前提ですよ。いやふざけんなよ笑が大前提として。でも多分、その気持ちが1ミリもなかったらこの会話にはならないじゃないですか。1ミリどころか多分105センチくらいは本心じゃないですか。
次回以降めちゃくちゃ早く行ったるわじゃあ!!とは思わないですよ。私そんな人間じゃないです。でも「まあこの期待を完全には裏切らないように変わらずちゃんとやらないとな〜」くらい思うわけです。
面白い人間でいたいものですね。←結論そこか?

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2026/03/30

考えるために長く眠る

他者は基本的に善人だ。というシンプルな世界観を維持するために例えば自らを加害する人の中にも弱さや傷付きや隠された善性を見付けなくてはいけない。ということを考えて単純なものこそ複雑だという当然なことに打つかってしまった。人を好きでいたい方だ。その方が快適に過ごせるからというだけでなく。

 

どうしてそのようなことを考えているのかと問われると就労継続支援の作業にデータ入力が有るのだけれど手ばかり規則的に動いている内に日頃の疑問や不満が整理されていくのだ。手と脳は連動しているのかも知れない。散歩している時に解決案が浮かぶことも有るから足もか。そして最近は工賃などの関係から他の就労継続支援に移ろうとしている。

 

午前中は作業をして午後はSEOWebデザインについて学んでいる。少し忙しい。HTMLにも少し興味を覚えて「星を売る店」というサイトをワードプレスで作ってみたりした。そのような中で『涼宮ハルヒの憂鬱』を見ている。長門が可愛い。中国語を学び直したいとか小説を読みたいとか思いながら半日ほど寝ている。本当に長く眠る必要が有るのだ。

 

この文章から分かるように私は上手く纏まらない。誰かが貴方は優しい人だと云ったらきっとそのように振る舞うだろう。ところで優しいとはどういう意味なのだろう。

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2026/03/15

3年生

ひそひそ荘も3年目らしい。3年ってすごくないですか? ほぼ毎月書いていたので、私の記事は20もある。

自分のサイト、ひそひそ荘、しずかなインターネット、そしてBluesky。あちこちにさまざまなことを書き散らかしてきたものだ。とある動画で「インプット奴隷」という造語が出てくるのだが、私はアウトプット奴隷である。なにかしら書いて/描いていないと落ち着かない。こんな奴なのにお喋りはマジのガチで苦手なのって謎すぎる。いや、謎でもないか。

お喋りは、私にとっては車を運転することに似ている。白線をはみ出してはいけない、車線変更時はウィンカーを焚いて後方確認、速度制限、車間距、標識……。誤って誰かを轢いてしまうかも、というか雪が積もっていて白線が見えない、どうしよう、どうしよう……。自由はないし、不安ばかりだし、本当に嫌になる。それでも、たまに良い景色を見ることができて嬉しくなる。そんな感じ。

対して、書く/描くことは誰もいないオフロードだ。車を使うこと以外は全て自由だ。いつブレーキをかけたっていいし、アクセルベタ踏みしたっていい! ヒャッホーーーーーー(遥か彼方に走り去る)

ところで、大学まで行った場合、3年生って人生で4回は来ますよね。(急ハンドル)

私は大学4年生までやった後、通信制に編入したので3年生を5回やりました。ウケるね。しかし、入学して何年目かによって学ぶ内容が変わるのってアホくさいですよね。理解して自分のものにする速度はひとによって全然違うのに。この画一性が諸悪の根源のような気がしてならない。もっと自由になれないものか。

てか、記事が20もあったら立派なZINEになるよね。ウワーッ作りたくなってきた! ちょうどインデザ再契約するし原稿だけ作っちゃお! という訳でおれは作業するぜ、あばよ!!

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2026/03/13

字が汚い

こんにちは、ハザマです。

私は字が汚いと思います。いやそんなことないよと思ってくださる方もいるかもしれませんが、私自身はそう思っているというところをとりあえず聞いてください。そういうふうに思ってくださる方が1人もいなかったらウケる。本当は汚いと自分が思ってないのでは?という矛盾が生まれますね。

まあ、汚いと言っても読めないレベルではありません。自分で言うかね。でも一応おめーの字読めねーんだよと言われたことはない……気がします。大昔、友人が休んだ日のノートを見せてと頼まれたので見せて、「読みづらくない?大丈夫?」と聞いたら「読みやすい字だと思う」と言われたこともあります。え……今考えると汚くて読みやすい字って妙ですね。この友人と異常に相性がよかっただけとかって話なんでしょうか。
余談ですが私は授業中たびたび寝ていたのでノートを見せるのを頼むなら私以外にしたほうがいいとは言っていました。しかし友人グループ内で私ともうひとりしか出ていない選択授業などもあるわけで、困ったもんですね。

汚い自覚というのは自分が勝手に持つものなので、他人に字がキレイだねと言っても汚いよーと言われることがほとんどですよね。アザス!笑でいいのに。そんなことないよーはまだしも汚いよーは無理あるだろ。
以前、字がキレイな人にキレイですねーをやったら「本当にキレイじゃないからやめてください、もう絶対言わないでください」とキレられ、私がそれで落ち込むタイプじゃないので全然嫌いになりました。言い分としては「身近に本当に字がキレイな人がいてあれが本物だから自分のことをそう言われると腹が立つ」みたいな話だったんですけど、知らんすぎるでしょ。おめーがそう思うのはもちろん勝手だけど人があなたのことをそう思って褒めるのも勝手でしょ。うるせーなと思ってもそれこそ「そんなことないですよー」と言っておけばいいものを。
言われたくない言葉ってのはわかりますよ。例えば私も「真面目だね」とか言われるのは好きじゃないです。もちろん真面目じゃないからです。でも言われたら「まじでそんなことないすけどね……」くらいのもんですよ。あ、じゃあアレかな?そもそも私のことが嫌いだったのかな?アッハッハ!!ボコボコにしたる

結論なんですけど(突飛)、私の字が汚いのは、せっかちで「このくらいの書き方でもわかるだろ」という甘えがあるからです。だから別に字を書くのが嫌いとかはないです。むしろ好きか嫌いかで言えば好きなほうだと思います。
「字に性格が出る」というのは私自身ずっと「本当にそうだなあ」と思ってるので人の字を見るのも好きです。上手いか下手かじゃなくて、それで伝わる人柄があると感じているから。あっ履歴書手書き強要人事みたいなことを言ってしまった。履歴書手書きは必要ないです。私もやりたくないので。

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2026/02/28

自分じゃないもの

こんにちは、ハザマです。
2月ってみじけ〜〜と思ってたらもう最終日じゃん。あぶね〜〜。

なんか最近物忘れがひどくなってる気がするんですよね。別にもともとよく覚えてられるほうでもないんですけど、「前よりも悪くなっている」ということだけは感じてしまうというか。あるじゃないですかそういうの。「アホだアホだと思ってはいたがここまでひどかったか?」みたいなの。
こないだも次の予定を決めてたことを完全に忘れてて友だちと遊ぶ予定を立てようとして、いや決めてたよ!って言われたらなんとか思い出せたんですけど。まあでも全然やばいよね。やっぱり人間メモしなきゃダメだよ。でも今日買い物行ったらスーパーの入口でおじさんが「……と……木綿豆腐だっけ?メモ忘れちゃってさ」と電話してたな。笑えね〜よこの人のこと。

科学的に証明されてるのかは知らんけど(調べる気がない。もしそうだとしたら教えてください。「すごいなあ」と思います)、発言した人と聞いていた人の行き違いがあったときって、聞いていた人の言うことのほうが正しいらしいです(言い間違いと聞き間違いどっちなのかという場面では大体言い間違い、ということです)。なんかわかる気がする。
そりゃ発言した側は「そう言った」と脳が認識してるんだから自分が言い間違えたわけがない!と言いたくなるだろうけど、客観的に聞いてた他者の認識のほうが正しいのは当たり前じゃないですか?脳ってかなり自分のいいように記憶をいじりますよ。ミス自体人から指摘されないと気づけないものだしなあ。自覚がないからこそミスなわけだし。ここ掘り下げるとコケコッコだからやめよう。

つまり、生きてく上で大事なのって「自分以外のことをどれだけ信じられるか」なんじゃないかと思うんですよ。(壮大なテーマ)
だってさっきの話も、まず他人を信用しないと成立しないじゃないですか。元が「自分が正しいに決まってる」って思考だったら「人が聞いたことのほうが正しいんですよ」と言われた上でも人を信じられない。「いや、だとしても、俺が間違ったはずがない」と思う。
人からあなたさっき間違ってましたよって言われたとき、「あ、ほんとに?間違ってた?やべ笑」って言える人のほうが絶対強い。生きるというテーマにおいて。そのテーマ何?
私は最強に生きたいからちゃんと自分以外を信じなければね。私が間違ったことをしたときはちゃんと教えてくださいね。できるだけ手は出さないように気をつけます。

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2026/02/15

お客さんにはここまで話してないです。

お客さんとデザインの話をしました。

僕はデザインのことは正直よくわかっていないけれども、眼鏡の形は完成されていて美しいと思います。

2枚のレンズを2つの眼球の前に固定する装置として、この形は完成されています。

耳にかける部分があり、鼻梁に載せる部分があり、レンズを固定する部分がある。この「コの字」はこの世のほとんどの眼鏡で採用されていて、日常生活を送る上で最適な形に整えられていきました。

眼鏡の形のおおよその変遷としては研磨したレンズからスタートし、鼻に挟むフィンチ、眼窩に嵌め込むモノクルなんかもありましたが、これらが淘汰されたのは装用者の骨格や使用シーンにおいて完成された形ではなかったからではと思います。面白いと言いましたけれども未完成、ある種の「美しくなさ」みたいなものがあるような気がしてなりません。その面白さも、今はほとんど見ない「希少性」からくるだけの錯覚だと言いきれます。皆さんに渡しても30分で飽きます、日常に溶け込むこともなく。


眼鏡のデザインとは、そもそも美しさのある、完成された物体にデザインを施すのです。生半可なデザインでは良いとは思えませんし、下手を打つと作者やデザイナーの“エゴ”が透けて見え、完成されたものを未完にしてしまう特有の「クサさ」が感じられます。気障だったりだらしなかったり、どこかこのデザイナーとは好みが合わないなぁと思わせる雰囲気が漂います。

だからこそ、プロダクトデザインというのは難しく価値がある。良いものをより良くする必要があり、その仕事には言い表せぬ価値があります。

「アート」や「ファッション」に走るものもありますが、それらの嗜好性の高さと私のいう「完成」を昇華するものはまた少し異なるように思います。

「できる、できない」と「やる、やらない」の間に存在する考えに近いものがあるかもしれません。

具体的に申し上げますと、眼鏡にはファッションやアートの側面を持ちながらも、暮らしの道具としての側面も大きく合わせ持ちます。この両輪をうまく回す必要があり、ファッションに偏重しても使えず、道具に偏重してもつまらないのです。


世の中には、このような眼鏡の「コの字型」に見る完成がいろんなところに隠れています。例えば鋏。

この世に存在する鋏の刃の部分の構造はほとんど同じ構造です。ふたつの刃を金具でカシめて支点とし、使いやすく、力を容易に入れながらも安全である。この構造は完成されています。

ただ、持ち手はいろんなものがあります。ここにエゴが出ます。「なんかこの鋏っていいよね」という気持ちや、はたまた逆の「なんかこの鋏は違うかもしれない」というものの多くは持ち手に表れるかと思います。刃でも同様のことがあるかもしれませんが、それもデザインに対して生じます。「普通にしていたら綺麗なのに、なんでこんなことやっちゃったかなぁ」ということがたくさんあります。完成されたものは普通でも十分美しいのです。


このように、鋏の構造も美しく、完成されたものであります。工学的であったり、工芸的な美しさであったり、さまざまな観点のものがありますが、概してデザインにより昇華されたものはそれほど多くないように思います。

完成されたものに手を入れるということは恐ろしくもありながら、反面、より良くなったそれには大きな価値があります。

ただし僕個人の嗜好としては「人間工学に基づいた」ようなものはあまり好きではありません。知識と教養の差と申しましょうか。私は人間が生み出すウィットに富んだデザイン、教養に似た部分を欲しています。


フォークやスプーン、ペンなんかもそうですが、多くの、一種の完成された形がこの世にはたくさんあります。

なんとなくそんな目線で物事を見てみるのも面白いかもしれません。


私は眼鏡のデザインではサイズと玉型、いわゆるレンズシェイプに注目します。

正解がないからこそ、その人の持つものが出る部分だからです。


皆さんの思う完成された形は何でしょうか。暇なら探してみてください。探さなくても良いです。

それではさようなら。

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2026/02/14

遊牧民のように

かつての私は漫画とアニメとイラストに埋もれて過ごしていた。新刊を買えば即座に読み、リアタイ視聴し、ツイッターでさまざまな絵師を追いかけた。

イラストを描くことも好きだ。ああでもない、こうでもないと線を選び、色を選ぶのが楽しい。

大学に入ってから、絵が描けなくなった。正確に言えば、描こうと思えば描けるのだが、昔のようにアイデアが出てこない。イラストは以前のように追いかけていたが、漫画は以前の貯金を使うように同じシリーズしか読まなくなった。それらも月刊誌に載っているから単行本はなかなか出ない。アニメはほとんど見なくなった。

それは多忙のせいでもあったし、先延ばし癖のせいでもあったし、鬱病のせいでもあった。どれかひとつに原因を絞ることはできない。ただ、好きだったものから離れていった、という結果だけがそこにあった。

鬱病の治療を始めて、体の怠さが目立つようになった。布団から出られない日が続いた。そんな私を、ここではないどこかに連れ出してくれたのが小説だった。活字は動かずそこに居続けてくれる。だからいくらでも立ち止まっていいし、戻ることもできる。私は登場人物のことを、言葉遣いを、脳に刻み込むように読んだ。

そうすると、自分でも書いてみたくなった。私ならどう書くだろう? どんな場面を書くだろう? それが原動力だった。

文章を読むときも書くときも、その場に留まって悩んでいる時間が多い。イラストは迷わない。何をどうすれば心地よくなるかを知っている。でも言葉は手探りの連続で、それが楽しい。調べて、考えて、何種類かの言葉を仮置きしてみて、そこから選び取る。線や色も似たような操作をするけど、立ち止まっている時間はウンと短い。

もしまたイラストに戻るとすれば、それは背景や風景に目を向ける時だろうな、と思う。それらの描き方はまだ習得していない。でも、今じゃない。イラスト制作という場所は、私のことを待っていてくれる。

イラストが「手探りの冒険」から「技術」に変わったように、言葉を扱うこともいつかそうなるかもしれない。そうなることは少し淋しく感じるが、しかしきっとその時には、私は新たな場所へと旅立つのだろう。

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