2026/04/04

インディヴィジュアル宗教

この文章は、全ての死にたい者たちに捧げる。


一説に依ると、宗教の定義とは、人間生活の究極的な意義を明らかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわりをもつと、ひとびとによって信じられているいとなみを中心とした文化現象である。また、宗教には、そのいとなみとの関連において、神概念や神聖性を伴う場合が多い、とのこと。

つまり、以前ここで書いた「信仰」にまつわる文章は、部分的には宗教的と言えるだろう。しかし、人間の問題の究極的な解決、これについては語りそびれていた。ので、今回はその話をしようと思う。

死は救済である、とは、もはや手垢にまみれた言葉だが、しかし真実の断片でもあると思う。『絶望のきわみで』において、シオランは「精神の存在は、生のひとつの異常だ」と述べている。精神を抹消するには、死ぬしかない。

しかし、全ての死は、全て救済たり得るだろうか? つまり、自殺は自力救済となるのか、ということだ。

民事法には自力救済についての記載があり、何らかの権利を侵害された私人が、司法手続によらず実力をもって権利回復を果たすことをいう。

ここから自殺について語るのはいささか牽強付会にも思えるが、まあ私の思考などいつもそのようなものである。

つまり、自殺とは、自尊心や信頼、希望を傷つけられた者が、その原因となった対象ではなく、自分の命を用いて、自尊心・信頼・希望があったことを主張する行為と言える。お前らの行為は、言動は、人殺しだったんだぞ、と突きつけるのだ。

もしかすると、それは上手くいくかもしれない。

しかし、自力救済は法律では認められていない。私人が暴力によって制裁を加えてはならないからだ。制裁を加えるのは司法の仕事である。

つまり、自殺によって相手を非難するのではなく、社会的に相手に非があったことを認めさせるのが正しいやり方なのだ。

では、現代では自分の命の行方さえ、自分では決められないのか。その通りである。これをフーコーの理論では生権力と言う。自殺は、社会的に認められるものではないのだ。

でもさあ、そんな理屈なんか知らないよ、もう苦しくてつらくてどうしようもない、一刻も早くこの精神を手放してしまいたい、そう思うこともあるだろう。むしろ、そのほうが多いかもしれない。

では、冒頭の問いを少し変えてもう一度見てみよう。すなわち、自殺は救済か。

きゅうさい【救済】 精神的不幸や物質的貧困および災害から、ひとびとを救うこと。(新明解国語辞典 第五版)

精神を抹消すれば、死ぬことができれば、それは救済かもしれない。

だが、少し待って欲しい。死ねば、マイナスはゼロに還元される。それは尤もだ。だが、今際の際に、後悔する可能性はないか? やっぱり死にたくなかったと絶望しながら死ぬ可能性は?

そんな正論もう聞き飽きたって? そうだよな。じゃあ、私の持論を聞いてくれ。

繰り返しになってしまうが、やはりひとは今際の際に、やっぱもうちょっとだけ、あと一時間だけでも生きて、おいしいものでも食べて、きれいな景色を見てから死にたかったと思うような気がするのだ。つまり、死の瞬間にマイナスに振れてしまう。死んだ後は、ゼロにはならない。ただ永遠のマイナスが残されるのだ。この私が生きていたという事実は消せないのだから。

ならば、本当の「救済の死」は無いのか。私は、あると思う。

生きて、苦しんで、苦しんで、苦しみ続けた先に、不意に訪れる不条理な死。これこそが本物の救済だ。

不条理とは神のしるしである。神は人間のように、言語で、物語で世界を理解してはいない。あるいは、物語を理解したうえで裏切る存在だ。我々とは違う世界に住まう理不尽の権化、それが神である。

突然の事故、事件、災害、病。この私が手を尽くしても回避不能の死、それが神が齎した救済の死なのだ。

では、救済されるに値する苦しみとは何か。不条理の苦しみである。

私は物体と権力者以外に怒りを覚えることは無いと言っていい。あるひとはこれに対して、大人びているとか、理性的だと褒め称える。しかし私自身には、これは人間味の欠如としか映らない。プルチックの感情の輪でも、怒りは基本の感情のひとつとして定義されている。その基本が、私には基本と思えない。

おそらく、私は人間というものに期待していないのだろう。期待がなければ裏切りもなく、裏切りがなければ怒りもない。だから、他者に期待を持っている者のことは、素直にすごいことだと思う。私にはそれができないから。

この、およそ一般には理解されがたいと思われる苦しみ、これこそが不条理の苦しみである。自力でこの苦しみを無くすこと、つまり他者に期待を持てるようになることも、もしかしたらできるかもしれない。それでも、今この瞬間から、というのは絶対に無理だと思う。

あなたがまだ未成年で親元から離れられないが、しかし苦しみの原因が親にある場合、これもまた不条理の苦しみである。出生とは、生きている人間にとって最上の不条理である。産んでくれと頼んだ覚えはないし、あんたなんか産まなきゃよかったと宣う親など矛盾この上ない。生殖行為をするのならば、子を産み、育て、ひとりの存在者として生きていけるよう倫理的に接するのが親としての義務である。その覚悟もなく親になろうなど、言語道断だ。

不条理の苦しみ以外の苦しみ、つまり今この瞬間に無くすことができる苦しみ、これは回避・解消するに越したことはない。むしろそれが賢明であり、神の期待に沿う行為である。

例えば、学校の環境が悪い、居心地が悪くて苦しい、これは逃げ出すべきである。テスト的な勉強ならば、自力でも可能である。幸いインターネット上には、さまざまな解説コンテンツが山のようにある。人間関係? そんなもの、あとからいくらでも学べるから大丈夫だ。人生は長い。

人間関係や仕事内容が苦痛で、もうこの仕事を続けられそうにない、いっそ死んでしまいたい。これはすぐさま辞めるべきである。失業手当を貰い、なんとか生き延びたほうが善い。転職できればそれでいいし、どうにもならなければ生活保護を受ければよい。生活保護の水際対策は、日本共産党の者に相談すればなんとかなる率が高いらしい。

神は不条理と変化を好む。常に同じ場所で安住することは許されない。

だから、私は苦しみながら生きるのだ。いつか訪れる救済を待ちながら。

どうかあなたも、私の手を握ると思って、一緒に苦しみながら生きてくれないだろうか。