数年前「モネ」を見ようという意識のもと、美術館に足を運んだ。
初めてきちんと認識したそれはあまりに“普通”だったことを覚えている、僕はその時モネのあまりの“普通”さにいたく感銘を受けた。
現代においては埋没してしまうほど、模倣されつくした末の“普通”。
現代の“普通”のスタートが、いま目の前にあるんやな、と思った。
“印象派”と呼ばれるジャンルではありますけれども、当時それは揶揄だった、というのは有名な話。
モネ本人がそれを描いた時どう思っていたのかは知らない。でも社会的な評価は現代受けているものとは違ったものだそうで。良いものではない、というかむしろ凄惨たるものだったと聞いている。
それをどう受け止めていたのだろうか。
あらゆるジャンルでそういうものはあるだろう。
パッと思いつくところでは、BGMの元になる“家具の音楽”を提唱したサティ、陶芸を前衛芸術として表現した走泥社なんかはそうじゃないかなと思う。
新しいことに周囲が追いつくのは時間がかかる。
本人が周囲のことを気にしているかは一旦置いといて。
現代はさまざまなものが過渡期であるように思う。今は評価されていないものや、辛酸を舐めているものがたくさんあるだろう。肩身の狭い思いをしているものもあるかもしれない。
でも、僕たちが生きている間にどうなるかはわからないけれども、それはいつか“普通”になるかもしれないし、未来においては、なくてはならない価値観になっていることもあるでしょう。
そして、“普通”になっている、社会を構成する価値観は結構すごかったりする。要するに、“すごい普通”があるのだろう。ただし、それが良いものかどうかは別の話である。
珈琲屋のお兄ちゃんが「スターウォーズ初めて見たけどバリ普通やったわ〜」と言うていたので、こういうことをふと思った。
文化芸術における“普通”の凄さ、そういうのもあると思いますよという話を、2人でうんうんとした。
かくいう私はスターウォーズの3以外は全部見た。3以外は。