播磨屋の聖なる閉業を茶化す流れが、どうにも居心地が悪い。
播磨屋の店主はたぶん本当に真剣なのに、なぜそれを軽んじることができるのだろう。 仕事を辞めてからどうやって生活をしていくつもりなのか、と心配するのが先ではないのか?
店主の主張が荒唐無稽に感じられるからか。病的だと思うのなら、何もできない外野はせめてそっとしておいて、身内なら受診を促せばいい。
なんの覚悟もなく廃業を決めたとでも思っているのだろうか。生きるか死ぬかという極限の精神状態での決断かもしれないのに。それをなぜ笑える。
極端なことを突然決めてしまう状況というのは、往々にして精神が追い詰められて切羽詰まっているときだ。だから私は本気で店主のことを心配している。
自分だけは正気だと思っているのか? 自分はあの店主のようにはならないと思いたいのか? そうであるならば、その思考こそが危ういと言っておきたい。言語を使う存在は、狂う可能性を必ず抱えているぞ。明日は我が身。
いつかおれが聖なる廃業を宣言したら、ちょっとだけ心配してくれよな。