早いもので、6月も終わろうとしている。マジ?
先月はどうにも調子が悪くて布団でくたばる毎日だったことを覚えているのだが、今月は何をしていたのかさっぱり覚えていない。今日も死んでいないので、生きていたことだけは分かる。
ここ一週間はようやく本調子の7割くらいまで戻り、日記本の編纂に取り掛かることができた。
私はいつも、パソコンやスマホで日記をつけている。ちなみに、二つで共有できるようにGoogle Keepを使用している。そのデジタル情報を紙の本にしよう、という訳だ。
最初は自サイトに載せている分だけを本にしようかと思っていたのだが、それ以前の、日記ソフトに書いた分も本にしたくなった。それが三年前からあるものだから、とても大変な思いをすることになったのだが、後悔はしていない。
私の日記は、その日に考えたことを書き留めておくというものだ。だから、その日の天気なんかはてんで分からない。出来事が書いてあるのは、何か特別な場所に出掛けたときくらいである。
『違国日記』という漫画がある。現在、劇場版も公開されている。その作品がまた大変面白いのだが、その中にこんなセリフがある。
「この先 誰が あなたに何を言って」「…誰が 何を 言わなかったか」「あなたが今 何を感じて 何を感じていないのか」
これは、私の母が好きだと言った部分である。何を言って、何を感じたのか。これはありふれたことだろう。だが、何を言わなかったか、何を感じなかったのか、これが面白い。
たまに、淋しいと思わないことが寂しい、と思う瞬間がある。これは感じなかったことを感じた瞬間だと思う。
私は基本、ひとりでも大丈夫なタイプだ。だけどたまに、なんだかそんな人生は寂しいのではないだろうか、という思いが去来するのだ。
でも、と思う。私は本当にひとりなのだろうか。
まず、私には私が居る。私は私と対話することができる。それは、今の私とも、過去の私とも。あるいは、未来とも対話できるかもしれない。
そして、本がある。本は他者そのものだ。本を読むことで、登場人物や作者と対話することができる。読書とは、静かで、豊かな時間だ。
生身の生き物とのやり取りだけが「誰かと居ること」ではないと、そう思うのだ。
それに、現代にはSNSというものがある。インターネット上で、誰かと対話することができる。それは、私のような者にとって僥倖と言えるだろう。
対話をすることによって視界が開ける。選択肢が増える。仲間を見つけることができる。それ即ち、生きやすくなるということだ。
ひとは常に変わり続ける。だから対話を重ねる。
日記本が刷り上がったら、過去の私と対話してみようと思う。