自分のブログでは陰鬱でこちゃこちゃとしたことばかりを書いているので、何か楽しい話でも書いてやろうと思うのだが、そもそも「楽しい」とは一体なんぞや、と言うところから思考が始まる。しかしそんなことを考えていても腹は膨れないし手も動かないので、思いつくままに書いていくことにする。
最近あった出来事といえば、バイトを始めたことだ。ホテルの清掃である。
私はかつてコンビニでバイトをしたことがあったが、一週間も持たず、数回目の出勤日に遁走して、次の日に親に引きずられて謝罪に行って退職した。遁走の理由だが、「今度高校生が入ってくるから」と言われたのが要因だったように思う。その頃の(今もだが、過去はとくに)私にとって、同年代の者たちというものは恐怖の対象でしかなかった。そうなった原因は話してもつまらないので省略する。ともかく、そういうことがあったので、続けられるか一抹の不安を抱えていた。
朝から昼にかけての四時間、ひたすら、寝具を包んでいる布を剥ぎ取り、新しい布を被せ、水回りを掃除する。これがなかなか悪くない。対して、コンビニは気まぐれに客が来るし、やることも煩雑かつ種類も多くて、とてもじゃないが二度とやる気にはならない。コンビニで働くひとには五億円振り込まれるべきだ。
まだ働き始めて七日しか出勤していないので先のことは分からないが、とりあえず続けていけそうな気配を感じている。よかった、よかった。
扨、なぜ働こうと思ったかというと、本を自費出版(と言うと格調高く聞こえるが、二次創作の同人誌である)したくなったからだ。
こう書いてふと、なぜ二次創作だからと卑下する必要があるのだろうか、という疑問が湧いた。元ネタの登場人物やら世界観やらを知っている前提で書かれているので、知らない人からしたらなんのこっちゃ分からないだろうが、知っている者の間では立派に読み物として機能している。読み物というものは、普段の会話より少し技巧を凝らしたコミュニケーションのひとつでしかないのだから、たとえ内輪の中でだけだったとしてもコミュニケーションが成立しているのなら、それは誇って良いことではないだろうか。
しかし、それでも二次創作を貶めようとする声はあるだろう。私が思いつく限りでは、キャラクターや世界観を借りているから、という理由があるように思う。たしかに、二次創作というものは著作権の縁をなぞるようなもので、公式(という言い方も好きではないが)からは黙認されている形ではある。それでも、その作品を作り上げたのは紛れもなく二次創作者その本人であり、ならばそこにはオリジナリティが宿っており、パクリとは一線を画しているだろう。
二次創作の価値や是非は一旦横に置くとして、だ。私は専ら小説の形で創作をしている。それまで小説なぞ一文字たりとも書いたことがなかったのに、書こうと思わせたのだから作品の力というものはすごい。
それまで細々と日記は書いていたが、小説を書くようになって、益々自分の思考や価値観を知り、言語化したいと思うようになった。そうすると、なにかしら作品という形で世に送り出したくなってくる。そこで、私小説というジャンルが頭に浮かぶ。現代の文字での創作は、大多数を物語が占めている。もちろん、物語の中には思想が散りばめられているが、もっと濃いもの、エッセンスを読みたいと思うときがある。しかし、私小説は衰退してしまった。いや、私小説は、エッセイやツイート、ブログなんかに回収されているのかも知れない。私小説は縮小したのではなく、広がったのだ。ならば、私は日記を書き続けるのが妥当なのかも知れない。
それはそうとして、私はキャラクターとキャラクターの間に横たわる感情だとか、関係性に萌える質である。だからやはり、小説も書きたいと思う自分も居る。二次創作における小説というのは、二者、あるいはそれ以上の間にある感情と関係性の解釈や萌えポイントの開示だと思っている。私は「萌え語り」が苦手だ。苦手というか、下手と言った方がいいかもしれない。なにか語ろうとしても言葉に詰まってしまう。
なぜ書き始めるに至ったか、記憶の糸を手繰り寄せてみた。それは、一言で言うならば、いくつか他者が書いたものを読んでみたものの、いわゆる「解釈違い」が多かったからだ。オイ、俺が手本を見せてやる、寝てる奴は起きろ、耳ィかっぽじってよく聞きやがれと、こういった具合だ。
私の書いたものが原作に近いかどうかは分からない。ただ、私の「こうであってほしい」という願いは変わらないので、一年前のものを読んでも、拙いとは思っても恥ずかしいとは思わない。そのときの私が持てる力、その全て使っているからだ。だから、むしろ誇らしいとさえ思う。(そう考えると、「解釈違い」という感情は、誤読の結果ではなく、願望の方向性の違いなのかも知れない)
ただ、書いている最中は、これは己の欲望をぶつけているだけではないか、意思ある人物を用いて人形遊びをしているのではないか、彼らを尊重できていないのではないか、と思う瞬間がある。しかし、どこまでもキャラクターはキャラクターでしかない。創作の中の人物というものは、そういった存在なのだ。そういうものだと割り切れるときはそうするし、そうでないときは煩悶する。そうやって揺れ動きながら、探りながら、創作していくことになるのだろう。
私にとって二次創作の物語とは、思考実験の結果の産物だ。もしこういった状況なら、彼らは何を思い、どんな行動をするだろう。どんな顔をして、どんな手付きで、何を語るのか。あるいは語らないのか。原作が長編ならば、この時点のこの人物はこうかもしれないが、あの時点ならこうかも知れない、という場合もある。そうした「もしも」を考える余白が、その原作の懐の広さ、あるいは物語の強度のように思う。
私も、読者に「もしも」を考えてもらえるような創作をしてみたいものだ。