最近、朝飯はグラノーラ、昼飯はパスタ、夕飯はカレーで固定している。
なんとなく、食事とは毎回違うものを食べるべきだ、という観念があったが、あるときふと、そんなことはないのではないか、と思い、このスタイルに落ち着くことになった。これが私にはかなり合っていて、ともすればサボりがちだった食事を毎日欠かさず食べられるようになった。
決まりごと、ルール、これは人の行動を制限する。自由か不自由かで言えば不自由なのだが、人は案外、ある程度不自由なほうが安定する。全くの議題無しにさあ話してごらんと言われても困ってしまうが、ひとつ話題を決めてもらえばなんとなく話が続いていくように。また、行動について言えば、なにをするか毎回考えずに済むので、他のことに力を注ぐことができる。
「人は自由の刑に処せられている」なんて言ったりするが、自由は時に苦痛を伴うことさえある。先程の議題のない会話がそうだ。無言になり、気まずくなるのはよくあることだ。(私は無言を苦痛に感じないが、それはまた別の話である)
だからといって、あなたは毎日このように過ごしなさい、これが時間割です、と事細かに書かれたものを強制されれば、ふざけんなと思う人が大半だと思う。だからこそ、人は労働を嫌い、自由を求めるのではないだろうか。
自由であることは、自分らしさを出せるということだ。自分らしさは、他者との違い、差異でしか見出すことができない。例えば温度は絶対的な指標があるから、これは10℃でこれは50℃ですね、と区別が付くが、人間の場合はこの人と比べてあの人はこうだね、としか言えない。つまり、アイデンティティは他者の中でしか確立できないのだ。アイデンティティ、これもまた、ある種の束縛になり得る。私は優しいから、優しい行いをしよう。私は教師だから生徒には厳しく接しよう、私は音楽が好きだから音楽を聴こう、と言った具合に。また、自分らしさとは、相手から「君ってこういう人だよね」と言われるよりは、自分が「私ってこうだよね」と定義することのほうが多いと思う。
「多様性」という言葉が取り沙汰されるようになって久しい。要は、自他の自分らしさ、アイデンティティを尊重しましょう、それらに優劣はないよ、という、文化人類学で言うところの文化相対主義のような在り方だ。
ところで、巷では「推し活」なるものが活発になっているらしい。推しとは、二次元三次元を問わず、自分が好きな人物のことを指す(が、ただ単に「好き」とイコールかと言うと、微妙なニュアンスの違いがあるように思うが、ここでは不問にする)。そして、「活」と言うからには、活動、つまり可視化が求められる。ある人はライブ等の現場に赴き、ある人はグッズを蒐集して「祭壇」を作る。
なぜ「推し活」をするのか。単純に楽しいから、ただそれだけだろうか? ここからは私の持論になる。例えばライブだと、よくコールアンドレスポンスがある。これは明らかにルールだ。地下アイドルやコンカフェなら、いくつものチェキで推しに貢ぐ。これもルール。アイドルやキャラクターの、全く同一のグッズをいくつも集めるのも、やはりそれが熱意を示すひとつのルールとなっている。
つまり、「推し活」は余暇を過ごすルールだ。
「推し活」は「多様性」のスローガンが無ければ生まれなかった潮流なのではないだろうか。少し前に、「オタクになりたがる人」だとか「倍速視聴」などが話題になったかと思う。私はそれを推し活前夜と見ている。要は手っ取り早いアイデンティティの確立を志向しているのだ。チェキやグッズは、自他に成果を見せる、可視化されたアイデンティティだ。
また、類似のアイデンティティによって、人と人との繋がりを得る。これも「推し活」ブームに拍車をかけた原因と見ていいだろう。現代人は孤独だからね。
先程からアイデンティティを連呼しているが、そもそもアイデンティティとはなんぞや、という話もしなければ嘘だろう。和訳すると「同一性」となるが、いまいちピンと来ない。そこで、私はこれを「各個人の本質」と形容してみたい。「実存は本質に先立つ」の「本質」だ。ざっくり言えば、あるものをそれたらしめる特性(意味や価値)のことだ。
多様性を守ろうという運動の後に多様性が生まれる、だなんて、なんだか本末転倒のような気もするが、これで確固たる本質を得て安心できたのなら、それは幸せなことと言っても良いのではなかろうか。しかし、幸せになれた者は良いが、そうでない者はどうか。日本における「多様性」の語は、多様性を受け入れるとか、守るとかよりも、「多様になる“べき”である」として受容されているように感じられる。
アイデンティティと言えば、ローマ字4字で現す性格診断が流行っている。正式名称は忘れた。これは性格を16種類に振り分けるものだが、これもまた、人の性格は16種類にも分けることができるんですよ! ということを端的に示している。要は、そう言った区別がなければ多様性を認識できない層というものはあるのだろう。あるいは、私には個性(アイデンティティ)が無いと思っている人に個性を与える役割だろうか。
推し活にしろ、性格診断にしろ、日本人はアイデンティティ、自己を貫くルールを欲しているように見える。また、多様にならねばならない、といううっすらとした強迫観念もある。
ヨーロッパでは国と国との間に物理的な境界など無く、北米とてヨーロッパ各地の移民のごった煮で、元から人種、性別、年齢、国籍、宗教、学歴、職歴、性自認、趣味嗜好等々の多様性があり、それが抑圧されているのが問題だよね、というところがダイバーシティ(多様性)の端緒のように思われる。しかし、日本は明治からこちら、西欧の真似ばかりで、自国のアイデンティティというものに乏しい。モダンも無いのにポストモダンとは何事か、と誰かが言っていたが、まさにそうで、強固な文化なら解体しても個々で自立するが、貧弱な文化を解体すれば人々は逆にアイデンティティを失って路頭に迷うことになる。
閑話休題。ルールを求める心は、生きる意味や価値を求める心でもある。こうすれば意味があるよ、価値があるよ、と予め示してくれているのが推し活だ。しかし、本当にそれで良いのだろうか。もちろん、それで幸せになった人々の人生を破壊しようという気は一切ない。単に、私はそれに乗れない、というだけの話だ。
では、私は何を指針にして生きればいい?
私はなぜ生きているのか。美味しいものを食べるため、幸せになるため、子供を作るため、何かを極めるため……色々あるかもしれない。しかし、それらの意味や価値は人間が決めたものであり、本来は、ただ生まれてきたから生きている、死んでいないから生きているに過ぎない。
生きるために生きる。その虚しさに、現代人は耐えることができない。欲望が生まれてしまったからだ。いや、現代社会で生きる以上、欲望を植え付けられてしまう、と見るべきか。
昔なら、男はサラリーマンとしてバリバリ働いて出世し、クラウンを乗り回して、年に一回は海外旅行に行きたいね、女はより良い妻として男の生活を支えたいね、子供や孫も欲しいよね、なんてのが欲望の、幸せのテンプレートで、それがどこから生まれたかと言えば、なんといってもテレビだ。CMやドラマが、人々の憧れと欲望を形作る。要はプロパガンダである。
インターネットの登場により、そのプロパガンダは次第に無効化されることになる。さらに、右肩上がりを目指す資本主義は、あの手この手で新たな欲望の種を蒔く。欲望の多様化により、人の在り方も多様化し、もはや仕事のみでの自己実現は難しくなってきた。
欲望が分散されて、広く浅くなってしまい、どこか虚しい気分になる。これが現代人の悩みの種なのではないだろうか。学校も社会も大人も、これひとつ頑張ればいいんだよ、というルールを示してくれない。自分で選び取らねばならない。そういうわけで、人々はオタクになりたがったり、推し活を始めるのだ……という話に戻ってくる。
しかし、オタクにしろ推し活にしろ、結局は他者が提示したテンプレートに沿っているだけではないか、と思わずにはいられない。多様性の強迫観念、と言えばそうかもしれない。いや、マジョリティへの反感だろうか。
だが、そのような欲望は、謂わば人生の「飾り」だ。人間が勝手に価値があるだの無いだのと騒いでいるだけで、本来は価値は高くも低くもないし、善でも悪でもないし、意味なんてそもそも存在しない。あると信じているだけ、つまりは信仰だ。信仰を取り払った先にあるのは、事物が存在するという事実のみ。いやいや、楽しいとか嬉しいとか、そういう価値があるじゃない、と言うかもしれない。しかし、それらが感じられなくなったら? 苦しみに支配されたら、その人生は生きるに値しないのか?
君は言うだろう、人は生きるべきだ、生きていればいいことがあるさ、と。しかし、“べき”というのもまた、人間が勝手に言っていることに過ぎない。本当は、世界のどこにも“すべき”こと、つまり義務などありはしない。それでも、人は義務を求める。迷子にならないための道標、ルールだからだ。なにより、そう“すべき”だからそうしました、と言えば、責任を負わずに済む。二重の意味で楽なのだ。
意味も価値も無く、義務すらもない。そんな中で、ふと全てがどうでもよくなる。生きていれば良いこともある、それはその通りだ。だが、その良いことさえ、もはやどうでもいいのだ。死んだら誰かが悲しむ? 私が死ねば私の世界は消え去るのだから、死後のことなんてどうだって良いではないか。地獄に落ちるならばそれで結構。現世以上の地獄を用意してみせてほしい。
この無責任極まりない考えを、どうしたら善い方向に変えられるだろう。私とて、幸せに生きられるのなら、それに越したことはないと思っている。だが、どうしても、不意にすべてがどうでもよくなるときがあるし、たぶんこれからもそうだろう。そんな時に、生きることを志向する手立てが欲しいのだ。
さて、先程、意味や価値は信仰である、と書いた。義務もまた、絶対のルールと信じている点で、やはり信仰だろう。そして、人類は神仏への信仰と共に生きてきた。だが、今の私は、神仏はおろか、己や世界の本質も信じられないようになってしまった。ニヒリズムである。
ここで、「実存は本質に先立つ」という言葉を再び思い出してみる。なんだ、信じるもなにも、そもそも本質は後からついてくるもの、つまり過去にしかないではないか! この世には意味も価値も無い、というときの「この世」とは、即ち未来のことであり、未来は「無」だ。まだ「無い」のだから。あるはずなのに無い、あってほしいのに無い、と思うから絶望するのであって、そもそも存在できないのなら、仕方がない。受け入れるより他ない。
意味や価値は後から決まる、あるいは自分で決める。それはいい。それじゃあ、私はなんのために生き続ける?
その日その日は、今日はどの本を読もうとか、週末はどこに出かけようとか、そういう楽しみを設けることでどうにか生きていけるだろう。しかし、ふと顔を上げると、消失点まで続く未来が見えて、怯んでしまう。そうなると、やはりこんなことを続けていても意味はないんじゃないか、ならいっそ終わらせてしまえば……なんて思ってしまう。
端的に言えば、人間は他者、つまり“私の隣にいるあなた”のために生きるしかない。けど、他者のためとは言ったって、自分にできることなんて何もないよ、と思うこともあるだろう。そこで、こう考える。この世の全てのものは、ふたつとして同じものはない。ふたつのリンゴ、と言っても、そのふたつは色や形や味は微妙に異なっている。同じように、全く同じ人間は存在しない。でも、違うと言っても向こうが優れてたら意味ないじゃん、と思うかもしれない。では、優劣とは何か、と問おう。そんなものは、どこぞの知らん人間が勝手に決めた尺度であり、自分が内側に取り込んだ尺度だ。“隣にいるあなた”にとっては、君の方がよほど優れていると見えるかもしれない。その可能性を忘れてはならない。なにより、“隣にいるあなた”の隣には、君しか居ないのだ! ならば、“隣にいるあなた”の手を掴むのは、他ならぬ君でしかありえない。
それでも、自分も他人もどーでもよくなってしまう瞬間もあるだろう。そんなときは、自分の内側に魂があると信じてみる。え? そんなもの見えないし感じないから無いって? なら君、紫外線や赤外線も目に見えないけど、しかしそれを疑ったりはしないよね。科学的に数値化できる、だから存在している、という訳だ。そもそも、科学だけが正しいと考えるのは、それこそ、そう信じているだけ、つまり科学への信仰に他ならない。科学的に検出できるのは、素粒子から成っているものだけである。つまり、モノとしてそこに在るものだけだ。では、モノ以外の存在が在るとすれば?
そこで現れてくるのが、魂だ。魂とは思考や感情、記憶の塊のようなもの、とする。(まあ、これの名前はどうでもよくて、霊でもプシュケーでも構わない。)魂は、粘土か泥団子のようなもので、人間はそれを一生こねたり丸めたりし続ける。なにせ、それは放っておくと固くなってしまい、そうなると神の機嫌を損ねるのだ。
神とは何か。完全な存在である。先程、優劣は他人が決めたものだと言ったが、それは人間同士の話である。人間というものは、自分を含め、神を前にすれば皆等しく愚かで劣等種なのだ。なので、くよくよ悩まないこと! なぜ完全な神が在るのに我々は不完全なのか? それは造る担当と観る担当が違うからだよ。まあ、デミウルゴスのせいにしておこうじゃないか。あるいは、観る神が(我々からすれば)悪趣味なのかもしれぬ。
神はまた、私の人生、私の魂を捧げる先である。さらに、神は全人類、一人ひとりに付いて、その個人を鑑賞している。私は神を楽しませなければならない。いや、神は、楽しませたいと思わせる姿形をとって我々の前に現れる。それは例えば親友のようなものであったり、猫のようなものであったり、黒髪ぱっつんロングヘアのミステリアス二次元美少女のような姿であったりする。
つまり、私は神のために、私の人生の出来事や内面を豊かにしなければならないのだ。
これはあくまで私が考えた私のための信仰とルールの一形態である。
みんなも自分にとっての魂や神を考えてみると楽しいと思うよ。