年に数回ほど、唐突に、新たに人間関係を持たねばならないのではないか、という強迫観念じみた考えに取り憑かれることがある。DiscordもTinderも試したが、長続きしなかった。そもそも、この考え自体が三日坊主的な性質を帯びており、三日も経てば、マァ今のままでも別にいいか、と思ってなあなあになってしまう。
どのように言葉を弄したところで、所詮は私も人の子である。魂は別だとしても、肉体はホモ・サピエンスでしかない。人間として生きている以上は、人間らしく生活せねばならないのでは、そうしなければ善い人生を送れないのでは、と思う。人間は人と人の間に在る者、縁によってつくられる存在、自己とは自己自身に関係するところの関係である。ならば、人間関係を持たねばならないのではないか。私の交際関係は元から狭かったが、現在会話を交わす相手は本当に親以外に居らず、だから前述のような発作を起こす羽目になる。
こんな言説がある。人と関わらないと思考が偏っていき、それが自分の首を絞めることになる。そうかもしれない、そう思い、余計焦る。
そもそも、世の人間はなぜ友達を欲しがったり、関係維持に躍起になったりするのだろう。たぶん、私のように「そうすべきだから」友達をどうこうする者は少数派なんじゃないかしら、と思う。本当のところはどうなのかは知らないが。ひとりだとさみしいのだろうか。不安なのだろうか。そのどちらもよく分からない。一人暮らしの最初は泣くよと親に脅されたが、実際はちっとも淋しくも悲しくもなかった。一人で居るときよりも、誰かと居るときのほうが、ウッカリ失言しないだろうか馬鹿なことをしでかさないだろうか、と不安で仕方がなくなる。そういう生き物なのだ、私は。
それでも、時折、誰かを愛してみたいと思うことがある。ここで言う「愛」は恋愛的なそれに限ったものではない。友情だって、立派な愛であろう。私は誰かのことを本気で愛したことは、今までただの一度もない。勿論、親しくしてもらえれば、それだけの親しみを返す。だが、それだけだ。私自ら与えることはない。
愛されたいとは特に思わない。親からの愛を満足に貰えているので、それ以上を望む気はない。
ひとりで生きて、ひとりで死ぬ。それが可能なら、それでも構わないのではないか、と思わなくもない。そもそも、本物の愛などというものは存在するのだろうか。みんなみんな、愛していると錯覚し、愛されていると錯覚し、その幻想の中に死んでいくのではないか。人と人が真に分かり合うことなどない。人はみな孤独だ。
否、否……そんな話をしたいんじゃない。私は、ごっこ遊びでも構わないから愛し愛されてみたい、そう思っているのではないか。ひとりの人間に興味を抱き、慈しむ。そういう行いをしてみたいのだ。能動的になりたい。受け身のままでは嫌だ。人に興味を持つにはどうすればいいのか、それは人と接することだ。つまり、振り出しに戻るのだ。
そんなこんなで、今日も例の発作に見舞われて、布団の上でクネクネしている。誰か俺を助けてくれ。