2026/02/15

お客さんにはここまで話してないです。

お客さんとデザインの話をしました。

僕はデザインのことは正直よくわかっていないけれども、眼鏡の形は完成されていて美しいと思います。

2枚のレンズを2つの眼球の前に固定する装置として、この形は完成されています。

耳にかける部分があり、鼻梁に載せる部分があり、レンズを固定する部分がある。この「コの字」はこの世のほとんどの眼鏡で採用されていて、日常生活を送る上で最適な形に整えられていきました。

眼鏡の形のおおよその変遷としては研磨したレンズからスタートし、鼻に挟むフィンチ、眼窩に嵌め込むモノクルなんかもありましたが、これらが淘汰されたのは装用者の骨格や使用シーンにおいて完成された形ではなかったからではと思います。面白いと言いましたけれども未完成、ある種の「美しくなさ」みたいなものがあるような気がしてなりません。その面白さも、今はほとんど見ない「希少性」からくるだけの錯覚だと言いきれます。皆さんに渡しても30分で飽きます、日常に溶け込むこともなく。


眼鏡のデザインとは、そもそも美しさのある、完成された物体にデザインを施すのです。生半可なデザインでは良いとは思えませんし、下手を打つと作者やデザイナーの“エゴ”が透けて見え、完成されたものを未完にしてしまう特有の「クサさ」が感じられます。気障だったりだらしなかったり、どこかこのデザイナーとは好みが合わないなぁと思わせる雰囲気が漂います。

だからこそ、プロダクトデザインというのは難しく価値がある。良いものをより良くする必要があり、その仕事には言い表せぬ価値があります。

「アート」や「ファッション」に走るものもありますが、それらの嗜好性の高さと私のいう「完成」を昇華するものはまた少し異なるように思います。

「できる、できない」と「やる、やらない」の間に存在する考えに近いものがあるかもしれません。

具体的に申し上げますと、眼鏡にはファッションやアートの側面を持ちながらも、暮らしの道具としての側面も大きく合わせ持ちます。この両輪をうまく回す必要があり、ファッションに偏重しても使えず、道具に偏重してもつまらないのです。


世の中には、このような眼鏡の「コの字型」に見る完成がいろんなところに隠れています。例えば鋏。

この世に存在する鋏の刃の部分の構造はほとんど同じ構造です。ふたつの刃を金具でカシめて支点とし、使いやすく、力を容易に入れながらも安全である。この構造は完成されています。

ただ、持ち手はいろんなものがあります。ここにエゴが出ます。「なんかこの鋏っていいよね」という気持ちや、はたまた逆の「なんかこの鋏は違うかもしれない」というものの多くは持ち手に表れるかと思います。刃でも同様のことがあるかもしれませんが、それもデザインに対して生じます。「普通にしていたら綺麗なのに、なんでこんなことやっちゃったかなぁ」ということがたくさんあります。完成されたものは普通でも十分美しいのです。


このように、鋏の構造も美しく、完成されたものであります。工学的であったり、工芸的な美しさであったり、さまざまな観点のものがありますが、概してデザインにより昇華されたものはそれほど多くないように思います。

完成されたものに手を入れるということは恐ろしくもありながら、反面、より良くなったそれには大きな価値があります。

ただし僕個人の嗜好としては「人間工学に基づいた」ようなものはあまり好きではありません。知識と教養の差と申しましょうか。私は人間が生み出すウィットに富んだデザイン、教養に似た部分を欲しています。


フォークやスプーン、ペンなんかもそうですが、多くの、一種の完成された形がこの世にはたくさんあります。

なんとなくそんな目線で物事を見てみるのも面白いかもしれません。


私は眼鏡のデザインではサイズと玉型、いわゆるレンズシェイプに注目します。

正解がないからこそ、その人の持つものが出る部分だからです。


皆さんの思う完成された形は何でしょうか。暇なら探してみてください。探さなくても良いです。

それではさようなら。