2026/04/04

インディヴィジュアル宗教

この文章は、全ての死にたい者たちに捧げる。


一説に依ると、宗教の定義とは、人間生活の究極的な意義を明らかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわりをもつと、ひとびとによって信じられているいとなみを中心とした文化現象である。また、宗教には、そのいとなみとの関連において、神概念や神聖性を伴う場合が多い、とのこと。

つまり、以前ここで書いた「信仰」にまつわる文章は、部分的には宗教的と言えるだろう。しかし、人間の問題の究極的な解決、これについては語りそびれていた。ので、今回はその話をしようと思う。

死は救済である、とは、もはや手垢にまみれた言葉だが、しかし真実の断片でもあると思う。『絶望のきわみで』において、シオランは「精神の存在は、生のひとつの異常だ」と述べている。精神を抹消するには、死ぬしかない。

しかし、全ての死は、全て救済たり得るだろうか? つまり、自殺は自力救済となるのか、ということだ。

民事法には自力救済についての記載があり、何らかの権利を侵害された私人が、司法手続によらず実力をもって権利回復を果たすことをいう。

ここから自殺について語るのはいささか牽強付会にも思えるが、まあ私の思考などいつもそのようなものである。

つまり、自殺とは、自尊心や信頼、希望を傷つけられた者が、その原因となった対象ではなく、自分の命を用いて、自尊心・信頼・希望があったことを主張する行為と言える。お前らの行為は、言動は、人殺しだったんだぞ、と突きつけるのだ。

もしかすると、それは上手くいくかもしれない。

しかし、自力救済は法律では認められていない。私人が暴力によって制裁を加えてはならないからだ。制裁を加えるのは司法の仕事である。

つまり、自殺によって相手を非難するのではなく、社会的に相手に非があったことを認めさせるのが正しいやり方なのだ。

では、現代では自分の命の行方さえ、自分では決められないのか。その通りである。これをフーコーの理論では生権力と言う。自殺は、社会的に認められるものではないのだ。

でもさあ、そんな理屈なんか知らないよ、もう苦しくてつらくてどうしようもない、一刻も早くこの精神を手放してしまいたい、そう思うこともあるだろう。むしろ、そのほうが多いかもしれない。

では、冒頭の問いを少し変えてもう一度見てみよう。すなわち、自殺は救済か。

きゅうさい【救済】 精神的不幸や物質的貧困および災害から、ひとびとを救うこと。(新明解国語辞典 第五版)

精神を抹消すれば、死ぬことができれば、それは救済かもしれない。

だが、少し待って欲しい。死ねば、マイナスはゼロに還元される。それは尤もだ。だが、今際の際に、後悔する可能性はないか? やっぱり死にたくなかったと絶望しながら死ぬ可能性は?

そんな正論もう聞き飽きたって? そうだよな。じゃあ、私の持論を聞いてくれ。

繰り返しになってしまうが、やはりひとは今際の際に、やっぱもうちょっとだけ、あと一時間だけでも生きて、おいしいものでも食べて、きれいな景色を見てから死にたかったと思うような気がするのだ。つまり、死の瞬間にマイナスに振れてしまう。死んだ後は、ゼロにはならない。ただ永遠のマイナスが残されるのだ。この私が生きていたという事実は消せないのだから。

ならば、本当の「救済の死」は無いのか。私は、あると思う。

生きて、苦しんで、苦しんで、苦しみ続けた先に、不意に訪れる不条理な死。これこそが本物の救済だ。

不条理とは神のしるしである。神は人間のように、言語で、物語で世界を理解してはいない。あるいは、物語を理解したうえで裏切る存在だ。我々とは違う世界に住まう理不尽の権化、それが神である。

突然の事故、事件、災害、病。この私が手を尽くしても回避不能の死、それが神が齎した救済の死なのだ。

では、救済されるに値する苦しみとは何か。不条理の苦しみである。

私は物体と権力者以外に怒りを覚えることは無いと言っていい。あるひとはこれに対して、大人びているとか、理性的だと褒め称える。しかし私自身には、これは人間味の欠如としか映らない。プルチックの感情の輪でも、怒りは基本の感情のひとつとして定義されている。その基本が、私には基本と思えない。

おそらく、私は人間というものに期待していないのだろう。期待がなければ裏切りもなく、裏切りがなければ怒りもない。だから、他者に期待を持っている者のことは、素直にすごいことだと思う。私にはそれができないから。

この、およそ一般には理解されがたいと思われる苦しみ、これこそが不条理の苦しみである。自力でこの苦しみを無くすこと、つまり他者に期待を持てるようになることも、もしかしたらできるかもしれない。それでも、今この瞬間から、というのは絶対に無理だと思う。

あなたがまだ未成年で親元から離れられないが、しかし苦しみの原因が親にある場合、これもまた不条理の苦しみである。出生とは、生きている人間にとって最上の不条理である。産んでくれと頼んだ覚えはないし、あんたなんか産まなきゃよかったと宣う親など矛盾この上ない。生殖行為をするのならば、子を産み、育て、ひとりの存在者として生きていけるよう倫理的に接するのが親としての義務である。その覚悟もなく親になろうなど、言語道断だ。

不条理の苦しみ以外の苦しみ、つまり今この瞬間に無くすことができる苦しみ、これは回避・解消するに越したことはない。むしろそれが賢明であり、神の期待に沿う行為である。

例えば、学校の環境が悪い、居心地が悪くて苦しい、これは逃げ出すべきである。テスト的な勉強ならば、自力でも可能である。幸いインターネット上には、さまざまな解説コンテンツが山のようにある。人間関係? そんなもの、あとからいくらでも学べるから大丈夫だ。人生は長い。

人間関係や仕事内容が苦痛で、もうこの仕事を続けられそうにない、いっそ死んでしまいたい。これはすぐさま辞めるべきである。失業手当を貰い、なんとか生き延びたほうが善い。転職できればそれでいいし、どうにもならなければ生活保護を受ければよい。生活保護の水際対策は、日本共産党の者に相談すればなんとかなる率が高いらしい。

神は不条理と変化を好む。常に同じ場所で安住することは許されない。

だから、私は苦しみながら生きるのだ。いつか訪れる救済を待ちながら。

どうかあなたも、私の手を握ると思って、一緒に苦しみながら生きてくれないだろうか。

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2026/04/01

期待が重い

こんにちは、ハザマです。

一応何年か日記を書いてたのでこちらは日記とは分けて書いてる(つもり)んですが、今年に入ってついに日記をサボりだしたのでもうあんまり分ける意味がなくなってきました。
というわけでこないだあった面白いこと聞いてよー!私が勝手に面白がってるだけで話として面白いかはもちろんみなさん次第だよねー!

長きシフト生活をついに終え(別に終えたくて終えたわけではない。転職しただけ)、カレンダー通りの生活になった私は今まで用事ができたらすぐに行けてた役所やら銀行やら郵便局の用事がわざわざ平日休みを取らないと行けなくなったことに辟易していた。ていうか働いてるみなさんほとんどこうなわけでしょ!?おかしくない!?!?まあそれはさておきね……
それだけのために休みを取るのは嫌すぎて延ばしまくっており、友人と遊ぶために取った平日休みのタイミングで、こりゃあチャンスじゃぞいと用事を済ませ、ジジイ化が止まらない私は用事を済ませるのもほぼ朝イチだったので、よーしジジイ喫茶店で一服しながら読書して友人待っちゃうぞᴡと小さめのパンケーキを食べながら2時間弱のんびりしていたわけです。昼飯を食う約束をしているというのに。胃袋だけはわんぱく。

友人は45分着の電車で来ると聞いていたので、45分に改札前に行こうと思っていました。
45分着の電車ってことは改札に来るまでにはさらに数分あるわけで、その前にトイレに寄ることも多いことを知っているから、余裕がある時間設定なんです。
そんなわけで私は30分ごろに会計をして喫茶店を出て、トイレに寄り、40分くらいにまだ連絡が来ていないのを見て駅に歩き出しました(喫茶店が駅すぐのビル内なので5分もかからない計算)。
ビルから出る瞬間またスマホをチラッと見ると「着いたんだけどもしかして現地集合……?」みたいなLINEが。あれ!?45分になってもないんだけど!?!?

大都会TOKYOはどれだけ電車が走っても運ばれたい人間が次々湧いてくるので数分おきに電車が来る仕様上、乗り換えにうまくいくと気づかないうちに“予定より早く着く”ということも起きるわけです。それが起きたわけです。そしてあとから聞いたところ友人自身がそれに気づいていなかったとのこと。
それはまあ起こり得ることですが、なんかすごい「なんでいないわけ!?」と言われるんですよ。おかしいじゃん。さっきまでの説明で私がめちゃくちゃきっちりやってるとみなさんも思いますよね?
「いやだから、余裕あるはずだったんだって、で実際全然遅れたりしてないしね!?」と言ったんですが、「でもハザマは“いる”じゃん。いつもさ。絶対“いる”じゃん」と。妖の話してるじゃん。
今回に関しては私ほんとにミスってないし今話した内容もかなりしっかりしてるほうだと思うんだけど、それでもダメなんだ?と聞くと「うん」と言われた。俺「期待が重すぎる」

私がここまでイジられても全く平気な人間ということは大前提ですよ。いやふざけんなよ笑が大前提として。でも多分、その気持ちが1ミリもなかったらこの会話にはならないじゃないですか。1ミリどころか多分105センチくらいは本心じゃないですか。
次回以降めちゃくちゃ早く行ったるわじゃあ!!とは思わないですよ。私そんな人間じゃないです。でも「まあこの期待を完全には裏切らないように変わらずちゃんとやらないとな〜」くらい思うわけです。
面白い人間でいたいものですね。←結論そこか?

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2026/03/30

考えるために長く眠る

他者は基本的に善人だ。というシンプルな世界観を維持するために例えば自らを加害する人の中にも弱さや傷付きや隠された善性を見付けなくてはいけない。ということを考えて単純なものこそ複雑だという当然なことに打つかってしまった。人を好きでいたい方だ。その方が快適に過ごせるからというだけでなく。

 

どうしてそのようなことを考えているのかと問われると就労継続支援の作業にデータ入力が有るのだけれど手ばかり規則的に動いている内に日頃の疑問や不満が整理されていくのだ。手と脳は連動しているのかも知れない。散歩している時に解決案が浮かぶことも有るから足もか。そして最近は工賃などの関係から他の就労継続支援に移ろうとしている。

 

午前中は作業をして午後はSEOやWebデザインについて学んでいる。少し忙しい。HTMLにも少し興味を覚えて「星を売る店」というサイトをワードプレスで作ってみたりした。そのような中で『涼宮ハルヒの憂鬱』を見ている。長門が可愛い。中国語を学び直したいとか小説を読みたいとか思いながら半日ほど寝ている。本当に長く眠る必要が有るのだ。

 

この文章から分かるように私は上手く纏まらない。誰かが貴方は優しい人だと云ったらきっとそのように振る舞うだろう。ところで優しいとはどういう意味なのだろう。

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2026/03/15

3年生

ひそひそ荘も3年目らしい。3年ってすごくないですか? ほぼ毎月書いていたので、私の記事は20もある。

自分のサイト、ひそひそ荘、しずかなインターネット、そしてBluesky。あちこちにさまざまなことを書き散らかしてきたものだ。とある動画で「インプット奴隷」という造語が出てくるのだが、私はアウトプット奴隷である。なにかしら書いて/描いていないと落ち着かない。こんな奴なのにお喋りはマジのガチで苦手なのって謎すぎる。いや、謎でもないか。

お喋りは、私にとっては車を運転することに似ている。白線をはみ出してはいけない、車線変更時はウィンカーを焚いて後方確認、速度制限、車間距、標識……。誤って誰かを轢いてしまうかも、というか雪が積もっていて白線が見えない、どうしよう、どうしよう……。自由はないし、不安ばかりだし、本当に嫌になる。それでも、たまに良い景色を見ることができて嬉しくなる。そんな感じ。

対して、書く/描くことは誰もいないオフロードだ。車を使うこと以外は全て自由だ。いつブレーキをかけたっていいし、アクセルベタ踏みしたっていい! ヒャッホーーーーーー(遥か彼方に走り去る)

ところで、大学まで行った場合、3年生って人生で4回は来ますよね。(急ハンドル)

私は大学4年生までやった後、通信制に編入したので3年生を5回やりました。ウケるね。しかし、入学して何年目かによって学ぶ内容が変わるのってアホくさいですよね。理解して自分のものにする速度はひとによって全然違うのに。この画一性が諸悪の根源のような気がしてならない。もっと自由になれないものか。

てか、記事が20もあったら立派なZINEになるよね。ウワーッ作りたくなってきた! ちょうどインデザ再契約するし原稿だけ作っちゃお! という訳でおれは作業するぜ、あばよ!!

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2026/03/13

字が汚い

こんにちは、ハザマです。

私は字が汚いと思います。いやそんなことないよと思ってくださる方もいるかもしれませんが、私自身はそう思っているというところをとりあえず聞いてください。そういうふうに思ってくださる方が1人もいなかったらウケる。本当は汚いと自分が思ってないのでは?という矛盾が生まれますね。

まあ、汚いと言っても読めないレベルではありません。自分で言うかね。でも一応おめーの字読めねーんだよと言われたことはない……気がします。大昔、友人が休んだ日のノートを見せてと頼まれたので見せて、「読みづらくない?大丈夫?」と聞いたら「読みやすい字だと思う」と言われたこともあります。え……今考えると汚くて読みやすい字って妙ですね。この友人と異常に相性がよかっただけとかって話なんでしょうか。
余談ですが私は授業中たびたび寝ていたのでノートを見せるのを頼むなら私以外にしたほうがいいとは言っていました。しかし友人グループ内で私ともうひとりしか出ていない選択授業などもあるわけで、困ったもんですね。

汚い自覚というのは自分が勝手に持つものなので、他人に字がキレイだねと言っても汚いよーと言われることがほとんどですよね。アザス!笑でいいのに。そんなことないよーはまだしも汚いよーは無理あるだろ。
以前、字がキレイな人にキレイですねーをやったら「本当にキレイじゃないからやめてください、もう絶対言わないでください」とキレられ、私がそれで落ち込むタイプじゃないので全然嫌いになりました。言い分としては「身近に本当に字がキレイな人がいてあれが本物だから自分のことをそう言われると腹が立つ」みたいな話だったんですけど、知らんすぎるでしょ。おめーがそう思うのはもちろん勝手だけど人があなたのことをそう思って褒めるのも勝手でしょ。うるせーなと思ってもそれこそ「そんなことないですよー」と言っておけばいいものを。
言われたくない言葉ってのはわかりますよ。例えば私も「真面目だね」とか言われるのは好きじゃないです。もちろん真面目じゃないからです。でも言われたら「まじでそんなことないすけどね……」くらいのもんですよ。あ、じゃあアレかな?そもそも私のことが嫌いだったのかな?アッハッハ!!ボコボコにしたる

結論なんですけど(突飛)、私の字が汚いのは、せっかちで「このくらいの書き方でもわかるだろ」という甘えがあるからです。だから別に字を書くのが嫌いとかはないです。むしろ好きか嫌いかで言えば好きなほうだと思います。
「字に性格が出る」というのは私自身ずっと「本当にそうだなあ」と思ってるので人の字を見るのも好きです。上手いか下手かじゃなくて、それで伝わる人柄があると感じているから。あっ履歴書手書き強要人事みたいなことを言ってしまった。履歴書手書きは必要ないです。私もやりたくないので。

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2026/02/28

自分じゃないもの

こんにちは、ハザマです。
2月ってみじけ〜〜と思ってたらもう最終日じゃん。あぶね〜〜。

なんか最近物忘れがひどくなってる気がするんですよね。別にもともとよく覚えてられるほうでもないんですけど、「前よりも悪くなっている」ということだけは感じてしまうというか。あるじゃないですかそういうの。「アホだアホだと思ってはいたがここまでひどかったか?」みたいなの。
こないだも次の予定を決めてたことを完全に忘れてて友だちと遊ぶ予定を立てようとして、いや決めてたよ!って言われたらなんとか思い出せたんですけど。まあでも全然やばいよね。やっぱり人間メモしなきゃダメだよ。でも今日買い物行ったらスーパーの入口でおじさんが「……と……木綿豆腐だっけ?メモ忘れちゃってさ」と電話してたな。笑えね〜よこの人のこと。

科学的に証明されてるのかは知らんけど(調べる気がない。もしそうだとしたら教えてください。「すごいなあ」と思います)、発言した人と聞いていた人の行き違いがあったときって、聞いていた人の言うことのほうが正しいらしいです(言い間違いと聞き間違いどっちなのかという場面では大体言い間違い、ということです)。なんかわかる気がする。
そりゃ発言した側は「そう言った」と脳が認識してるんだから自分が言い間違えたわけがない!と言いたくなるだろうけど、客観的に聞いてた他者の認識のほうが正しいのは当たり前じゃないですか?脳ってかなり自分のいいように記憶をいじりますよ。ミス自体人から指摘されないと気づけないものだしなあ。自覚がないからこそミスなわけだし。ここ掘り下げるとコケコッコだからやめよう。

つまり、生きてく上で大事なのって「自分以外のことをどれだけ信じられるか」なんじゃないかと思うんですよ。(壮大なテーマ)
だってさっきの話も、まず他人を信用しないと成立しないじゃないですか。元が「自分が正しいに決まってる」って思考だったら「人が聞いたことのほうが正しいんですよ」と言われた上でも人を信じられない。「いや、だとしても、俺が間違ったはずがない」と思う。
人からあなたさっき間違ってましたよって言われたとき、「あ、ほんとに?間違ってた?やべ笑」って言える人のほうが絶対強い。生きるというテーマにおいて。そのテーマ何?
私は最強に生きたいからちゃんと自分以外を信じなければね。私が間違ったことをしたときはちゃんと教えてくださいね。できるだけ手は出さないように気をつけます。

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2026/02/15

お客さんにはここまで話してないです。

お客さんとデザインの話をしました。

僕はデザインのことは正直よくわかっていないけれども、眼鏡の形は完成されていて美しいと思います。

2枚のレンズを2つの眼球の前に固定する装置として、この形は完成されています。

耳にかける部分があり、鼻梁に載せる部分があり、レンズを固定する部分がある。この「コの字」はこの世のほとんどの眼鏡で採用されていて、日常生活を送る上で最適な形に整えられていきました。

眼鏡の形のおおよその変遷としては研磨したレンズからスタートし、鼻に挟むフィンチ、眼窩に嵌め込むモノクルなんかもありましたが、これらが淘汰されたのは装用者の骨格や使用シーンにおいて完成された形ではなかったからではと思います。面白いと言いましたけれども未完成、ある種の「美しくなさ」みたいなものがあるような気がしてなりません。その面白さも、今はほとんど見ない「希少性」からくるだけの錯覚だと言いきれます。皆さんに渡しても30分で飽きます、日常に溶け込むこともなく。


眼鏡のデザインとは、そもそも美しさのある、完成された物体にデザインを施すのです。生半可なデザインでは良いとは思えませんし、下手を打つと作者やデザイナーの“エゴ”が透けて見え、完成されたものを未完にしてしまう特有の「クサさ」が感じられます。気障だったりだらしなかったり、どこかこのデザイナーとは好みが合わないなぁと思わせる雰囲気が漂います。

だからこそ、プロダクトデザインというのは難しく価値がある。良いものをより良くする必要があり、その仕事には言い表せぬ価値があります。

「アート」や「ファッション」に走るものもありますが、それらの嗜好性の高さと私のいう「完成」を昇華するものはまた少し異なるように思います。

「できる、できない」と「やる、やらない」の間に存在する考えに近いものがあるかもしれません。

具体的に申し上げますと、眼鏡にはファッションやアートの側面を持ちながらも、暮らしの道具としての側面も大きく合わせ持ちます。この両輪をうまく回す必要があり、ファッションに偏重しても使えず、道具に偏重してもつまらないのです。


世の中には、このような眼鏡の「コの字型」に見る完成がいろんなところに隠れています。例えば鋏。

この世に存在する鋏の刃の部分の構造はほとんど同じ構造です。ふたつの刃を金具でカシめて支点とし、使いやすく、力を容易に入れながらも安全である。この構造は完成されています。

ただ、持ち手はいろんなものがあります。ここにエゴが出ます。「なんかこの鋏っていいよね」という気持ちや、はたまた逆の「なんかこの鋏は違うかもしれない」というものの多くは持ち手に表れるかと思います。刃でも同様のことがあるかもしれませんが、それもデザインに対して生じます。「普通にしていたら綺麗なのに、なんでこんなことやっちゃったかなぁ」ということがたくさんあります。完成されたものは普通でも十分美しいのです。


このように、鋏の構造も美しく、完成されたものであります。工学的であったり、工芸的な美しさであったり、さまざまな観点のものがありますが、概してデザインにより昇華されたものはそれほど多くないように思います。

完成されたものに手を入れるということは恐ろしくもありながら、反面、より良くなったそれには大きな価値があります。

ただし僕個人の嗜好としては「人間工学に基づいた」ようなものはあまり好きではありません。知識と教養の差と申しましょうか。私は人間が生み出すウィットに富んだデザイン、教養に似た部分を欲しています。


フォークやスプーン、ペンなんかもそうですが、多くの、一種の完成された形がこの世にはたくさんあります。

なんとなくそんな目線で物事を見てみるのも面白いかもしれません。


私は眼鏡のデザインではサイズと玉型、いわゆるレンズシェイプに注目します。

正解がないからこそ、その人の持つものが出る部分だからです。


皆さんの思う完成された形は何でしょうか。暇なら探してみてください。探さなくても良いです。

それではさようなら。

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2026/02/14

遊牧民のように

かつての私は漫画とアニメとイラストに埋もれて過ごしていた。新刊を買えば即座に読み、リアタイ視聴し、ツイッターでさまざまな絵師を追いかけた。

イラストを描くことも好きだ。ああでもない、こうでもないと線を選び、色を選ぶのが楽しい。

大学に入ってから、絵が描けなくなった。正確に言えば、描こうと思えば描けるのだが、昔のようにアイデアが出てこない。イラストは以前のように追いかけていたが、漫画は以前の貯金を使うように同じシリーズしか読まなくなった。それらも月刊誌に載っているから単行本はなかなか出ない。アニメはほとんど見なくなった。

それは多忙のせいでもあったし、先延ばし癖のせいでもあったし、鬱病のせいでもあった。どれかひとつに原因を絞ることはできない。ただ、好きだったものから離れていった、という結果だけがそこにあった。

鬱病の治療を始めて、体の怠さが目立つようになった。布団から出られない日が続いた。そんな私を、ここではないどこかに連れ出してくれたのが小説だった。活字は動かずそこに居続けてくれる。だからいくらでも立ち止まっていいし、戻ることもできる。私は登場人物のことを、言葉遣いを、脳に刻み込むように読んだ。

そうすると、自分でも書いてみたくなった。私ならどう書くだろう? どんな場面を書くだろう? それが原動力だった。

文章を読むときも書くときも、その場に留まって悩んでいる時間が多い。イラストは迷わない。何をどうすれば心地よくなるかを知っている。でも言葉は手探りの連続で、それが楽しい。調べて、考えて、何種類かの言葉を仮置きしてみて、そこから選び取る。線や色も似たような操作をするけど、立ち止まっている時間はウンと短い。

もしまたイラストに戻るとすれば、それは背景や風景に目を向ける時だろうな、と思う。それらの描き方はまだ習得していない。でも、今じゃない。イラスト制作という場所は、私のことを待っていてくれる。

イラストが「手探りの冒険」から「技術」に変わったように、言葉を扱うこともいつかそうなるかもしれない。そうなることは少し淋しく感じるが、しかしきっとその時には、私は新たな場所へと旅立つのだろう。

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2026/02/11

二級を集めていきたい

履歴書を書くために資格や検定を整理してみたら漢字検定と秘書検定と美術検定は二級だった。他にMOSのWordとExcelを持っていて今は英語検定二級の一次試験の結果を待っている。と書くととても勤勉に思われるかも知れないけれど仕事を殆どしたことが無い。それはASDと診断されたことが遅かったためだと思う。同じ診断をされている人の中には私のように相貌失認で悩んでいる人も居るかも知れない。私は在宅で就労継続支援を利用している。こんな文章でも誰かの糸口になれば良い。

 

英語検定二級に受かっても落ちてもSEO検定の勉強をしたいと思っている。SEOとは検索エンジン最適化という意味だ。子供の頃から夢が無かったけれどインターネットが発達したことでWebライターという仕事に興味を持った。そのためにグーグルなどでどうしたら上位に表示されるかを学びたいと思ったのだ。裏技のようで少し嫌だけれど規則や法則を学ぶことは正しい文法に従って文章を書くことに似ている。ペンギンアップデートなど可愛らしい語彙が唐突に出てくることも面白い。

 

私生活でも優先順位を付けていかないといけない。淋しいけれど。今年は姿勢を良くして生きるつもりだ。偶に道どころか時間を知らない人から訊かれるのでそれに答えるくらいの親切もしていきたい。ASDの人にとって生き易い社会かは分からないけれど私は少しずつ助かっている。兎か亀かと問われれば兎のような生き方で。

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2026/01/23

飲み込みやすい

こんにちは、ハザマです。

先日、年単位で読んでた小説を読み終わりました。いやあ長かった。小説自体もまあまあ長いけどもちろん私がかけた時間のことです。難しくて。それと同時に私の読書習慣は年々失われてるから今や1年に1冊読むか読まないかというのも珍しくなく、そんな状況でよく読み終われたものだと自分でも思っています。
しかしそれは私ががんばったからではなく小説が面白かったからです。面白くなければ読み終われません。私の場合はね。意地とかないからあーもうええわーと思ったら全然やめちゃうのでね。

それを改めて感じたときに、私の場合、それは文章だから思うことだなと気づいたわけです。
ここに書いたか覚えてないんですが私はアニメを苦手としており(見られないわけじゃないが自分の意思では決して見ない。食べもので言えばパプリカみたいなもん←例えが悪すぎ)、アニメ独自の苦手要素は一旦置いておくと、そもそも映像作品自体に苦手意識があるんです。
集中力がなくひとつのことだけをすることができず、ついでに物事をやり続けることも難しい。わかりやすく言えば、作業中には音楽をかけたいし、数分おきにボーッとしたいとかそんな感じです。
そうなると映画、ドラマ、アニメの類は私にとって観るのにかなり気合と覚悟がいるものであり、かなりの期待と興味を持つものでないと観ようという気持ちは絶対に湧いてこないということです。仕事でもないのに自分を追い込む環境に自分の身を置きたくなさすぎる。
(ちなみに、近年はピクチャインピクチャ含め、スマホで気軽に観られて一時停止や10秒単位の巻き戻しなどもとっても簡単になり、昔から内容は気になってた映画を本当に少しずつ観られるようになってきました。うれしいね。)

つまり本って最高なんです。テキトーになんか流しながらでも、いつだって読めるし、すぐにやめられる。思い出したいシーンにもすぐに戻れる。あまりピンと来ないシーンもわかるまでずっと読み返せる。
もっと言えば自由。映像ってそのものですべてが完成されてるから見逃せないというのも私は疲れる原因なんだけど、本だと自分の頭で想像する余地がかなりあるから、使う体力を自分に委ねられてる気がしてありがたい。
映画がこちらを抱きしめてくれてるとしたら、本は肩が触れるくらいの近さで寄り添ってくれてる感じじゃないですか?例えキモッ
そういうのがあるから今回の小説も年単位で時間かかってるのに読み終われたんです。何より面白いから(2回目)。

というのを浮かんだうちにどこかに残しておこうと思いました。ふーんと読んでくれた方ありがとうございます。体力を使わずに読んでくれたかな。

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2026/01/19

本人には秘密なんですけどね

 

朝の電車でうたた寝をしていた。

半分起きた頭の片隅で、この人と結婚したいなと思った時が思い起こされた。


僕は大切にしているうつわやグラスがたくさんあって、それを日頃から使っている。

僕は形あるものはいつか壊れてしまうことを理解しているけれども、僕と関わる人たちはそれに触れて、使って、壊すこと恐れる人が多かった。

今の結婚相手だけは「あなたが大切にしているものを私も大切にしたいから、大切にする方法を教えて欲しい」と言ってくれた。


その時に(この人と結婚できたら素敵だな)と思った。

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2026/01/17

小説なんもわからん

主に二次創作小説をこそこそと書き連ねて3年目の私だが、未だに小説の書き方ってわかんね~! と思っている。たぶんずっと言ってるんだろうけど。

ここ1年は、プロットってなに? これでいいの? と言いながら土台を先に作ることを覚えた。それまではわやわやの欲望と妄想をそのまま原稿にぶっこんでいた。わんぱくすぎる。

やっぱり体感として、土台がちゃんとあると密度が増すし、字数も増える。良いことしかない。

今のところ得ている感覚として、まず「これが見たい、書きたい」という強い意志を持つことが重要だ。二次創作ならここがわりと分かりやすくて、こいつがこうなっているところが見てぇとか、カプならこいつとこいつがこうなっているところが~とかここが良いんですよ! というポイントをひとつ以上掴むことだ。

あとはひたすら理詰め。ここに至るには? ここはどうなってるの? これってどういうこと? を延々と書き連ねる。そうすると隙がなくなる。強い話が出来上がる。

そうすると、山場から遡って出だしがわかるし、出だしが分かればオチも分かるのだ。「分かる」じゃアバウトだな。例えば、主人公が仲間と力を合わせて敵を倒すところが見たい→なぜ戦うことになる?→村の財産を盗まれたから→じゃあ村から旅立って仲間を集める話だな→旅立ちが起点なら帰って来なきゃね、という感じだろうか。他の例えを出すなら、弱ってるAがBに支えてもらっているところが見たい→なぜ弱ってる?→落ち込む出来事があった→まずちょっとしたトラブルが起こるんだな→じゃあ最後にトラブルが解決したり新たなモノの見方を得るんだろう、という感じ?

で、短編は描写されるイベントが1つだが、長編は複数のイベントを配置するといいんじゃないかと思っている。思っている、というのはまだあまり確信が持てていないのだ。じゃあどうやって複数のイベントを思いつけばいいんですかって話になるが、縦軸を複数置くことのような気がする。Aの内面の変化、AとBの関係性の変化、AとCの関係性、世間の出来事……みたいな。もちろん必ず変化である必要性はない。むしろ、変わらない軸も置くと味わいが増すしアイデンティティのようなものが出来上がる気がする。

そんで、どうやらプロットというものを作った後は草稿というものがあると良いらしい。しかしッ! 私は草稿を作ったことがないのである! これが原稿に時間がかかっている原因でしょう。絵で例えるなら、アタリからいきなり線画を描こうとしているようなものだ。迷うに決まっている。次の目標は草稿と仲良くなることです!

……というところで締めようと思ったのだが、ものの記事によると、まず下書きを作り、次に草稿を作ることもあるらしい。絵で言うなら、ざかざか描いた下書きと清書して色も置いた下書きみたいなもんか? うーん文章を書くって奥深いぜ!

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